桃園に義を結ぶ  あれは史実?

あまりにも有名なあの劉備・関羽・張飛の義兄弟宣言。
これにより、死ぬまで義理をお互いに通し続けて世の涙を誘ったものですが、
実際のところはどうだったのでしょうか?

まず、私もうっかり書いてしまいましたが、史実というのは便利な言葉です。
「正史が史実では?」と思われる方もおありかと思いますが、それは違います。
中国には二十一史や二十四史などがありますが、それらはすべて後の王朝になってから書か
れた物です。そして、そこに人の手が介在する以上、なんらかの歪曲がなされることは必至で
す。だれも言ったことの一字一句覚えていることなんてありませんからね。
例えば、隋の煬帝の煬は、「天に逆らい民を虐ぐ」という意味で、唐の正当性を主張するため
に、彼を貶める目的でつけられたものです。
貶めるといえば、卑弥呼って、見るからに卑しいって感じがしませんか?
彼女の名前、実は卑弥呼じゃないんです。
おっと、今は桃園の話でした!邪馬台国の話は長くなるんで、また別の機会に。
要するに私が言いたかったのは、史実なんてどこにもない、ってことです。

それでは本題に戻って
張飛の家の裏の桃畑で「生まれた月日は違えども」が
あったのかなかったのかと聞かれれば、桃園うんぬんに関しては歴史家としては
語るに及びござらん、でしょう。私もそう思います。なんたって、ドラマチックすぎますし。
でも、義兄弟だなんだということに関しては、私はにわかには虚構とは言い切れないんです。
なにも正史に「張飛は関羽に兄事していた」他書かれているからではありません。
もちろん演義を信じているからでもありません。
彼らの出自は曹操や孫権のように知識階級ではなく、単なる民です。
治世であれば、中華の北の端で静かに一生を終えたでしょう。
しかしたまたま乱世に生まれ、彼らは民であることを捨てたのです。
誤解を恐れずに言えば、彼らは侠です。
それも、劉備が先祖だと言い張る劉邦は実際の侠ですから、あながち悪くはないと思います。
もしそうだったとすれば、詳しくは知りませんが、ありますよね、義兄弟。
そうすると、本当は劉備より関羽の方が年上なのに、というのにも説明がつくんじゃないかな〜
と(ある本では演義の上で武器ともあわせて男役・女役というものも/滝汗)

しかし本当のところは、私たちが思う劉備と趙雲のような関係というのが一番、近い気がします
(じゃあ、趙雲の立場は!?)






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