「命を天より受け」たのは?

あの董卓をして「二袁と劉表と孫堅さえ殺せば天下は自然と俺になびく」と言わしめた孫堅。
兵数では圧倒的に劣る董卓軍を蹴散らしながら千里の彼方より帝都・洛陽に一番乗りを果た
すも、そこはすでに董卓によって焼き払われて跡形もなくなっていた。
孫堅は洛陽に駐屯するや董卓が暴いた漢室代々の陵墓を修復したが、あるとき井戸から五
色の気が立ち上った。怪しがって調べさせると、なんと伝国の玉璽が出てきた。
洛陽は、とびきりの大義を残していたのである。

演義では持ち主にことごとく不幸を呼ぶこの伝国の玉璽、もともとは秦の王家に伝わるものだ
ったが、劉邦が漢を建国するにあたりそのまま用いたために「伝国」の名をかぶることになっ
た。焚書・坑儒で悪名高き秦の宰相・李斯が考案した「受命于天、既寿永昌」の8字を刻する
歴代相伝の重宝である。それこそ、大義の塊のようなものだ。では、その玉璽を孫堅はどうし
たのだろうか。

1・袁術に取られた
・『演義』孫堅死後袁術に身を寄せていた孫策が父の兵を返してもらう代わりに袁術に渡した
・『山陽公載記』袁術は皇帝僭称を狙っていたので孫堅が玉璽を手に入れたことを知ると妻
(呉夫人か?)を人質にしてそれを奪った

2・孫家に伝わっている
・『江表伝』孫皓が降伏した際晋に納めた6種の璽はすべて金製で、玉製のものはなかった
・『志林』今伝わらないからといって孫堅が見つけたことまで否定するのは根拠が弱い

3・そもそも孫堅は持ち出していない
・「裴松之注」孫堅は漢室に特に忠心が篤く、そんなせこいことはしない。呉の史官たちは玉璽
が呉に伝わったということで呉の正当性を強調しているが、そのことがかえって孫堅の名を汚
している

いかがだろうか。私は裴松之には悪いが孫堅も乱世の雄なのでそんな甘っちょろいことは言っ
て欲しくない。そこで案外袁術説が正しいように思う。なぜならば、いかに袁術といえど何の根
拠もなく帝位を僭称するとは考えづらいからである。そこで、前から考えがあったところに強力
な誘発要因が加わることで皇帝を名乗ることにしたとは考えられないだろうか。
そうでなければ、一連の袁術の行動は説明がつかない(^^;)

もしそのまま孫家に伝わっていたとしても、きっとどこかで売っぱらってしまっているだろう。
いつの日かどこぞで発見されるのを望む(多分ない)





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