一年違うと大きな違い!

「倭人は帯方の東南大海の中にあり・・・」邪馬台国でおなじみの魏志倭人伝
(正式名称は『三国志』魏書東夷伝倭人条)の冒頭文である。
これを基に邪馬台国が近畿にあるのか九州にあるのかいまだに説が真っ二つに割れている
のはご存知の通り。但しここではこの邪馬台国論争はひとまず置く(キリがないから)

史料に記載の倭人伝において、卑弥呼(原・倭の女王)が帯方郡を通じて使者を送った時期に
注目していただきたい。原文「景初二年六月」が注などでは「景初3(239)年の間違い」となっ
ているはずだ。実は曹叡が死んだのは景初3年の春正月1日。ということは、倭人伝を信じる
なら倭の使者に謁見したのは曹叡だが、日本説を採ると曹叡は死んでいるので次の斉王芳に
なる。どうでもいいことかもしれないが(ただし私の中では気持ちの上で大きく違う)、しかしよく
考えれば変な話である。なぜ中国の正史に日本が総出で?いちゃもんをつけているんだろう
か。実は、これはとんでもない数合わせの産物だったのである。

みなさんは神功皇后をご存知だろうか。私もよく知らないが(汗)応神天皇の母で
古事記によれば三韓征伐をしたすごい人であるらしい(-_-)
そして、日本書紀オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)紀治世三十九年注に「倭の女王が使
者を送ってきたと魏志に書いてある」と記されている。ちなみに神功皇后は四世紀末から五世
紀初めの人物なので、多分に伝説的な人だということはお分かりいただけると思う。つまり、当
時の日本書記の編纂者は女王=神功と考えていたのである。

そして時は下り明治。なんだか結論を書くのが情けなくなってきたが、率直にいえば、日本書
記のために景初三年でなくてはつじつまが合わないことに気づいた人がいたのである。239年
と三十九年・・・・。それだけです、ハイ。





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