大脱走!はとんだ回り道

今回は、呂布が曹操に破れて陳宮(と高順)が皆に涙で見送られ、劉備がやっぱり曹操に負け
て妻子を置き去りにして逃げてしまって関羽が曹操に捕まり、毛沢東も大好きな官渡の戦いで
顔良を本当に自分で斬り(文醜は違うぞー)、白馬の包囲を解いたことでただのやっさんから
漢寿亭候(漢の寿亭候ではなく、強いて言えば漢寿の亭候である。お間違いなきよう)にまでな
った関羽の、歴史に残る、一世一代の大冒険のお話である(大事なことはしょってるぅ〜/笑)

その前振りとして演義では、関羽は曹操に降るとき友人の張遼に曹操に仕える3つの条件を
提示している。それは、1・私は曹操に降伏するのではなく、漢室に降伏するという事。2・共に
捕まった劉備の妻2人を、劉備の知行をもって養う事。そして、何人であっても宅の門をくぐら
せぬ事。3・劉備の行方が知れたら、いつ何時であろうと暇をもらう事、である。曹操はこれを
認めた。しかし、やはり曹操は関羽を手放すのは惜しいと思われ、嫂と不義をおこさせようとし
たり、あらゆる金銀財宝や美女を贈ったり、董卓が呂布に贈った西方の名馬(おそらく汗血馬
と思われる)赤兎馬を贈ったりしている。しかし、その時関羽に「これで千里の彼方まで義兄を
追える」と言われ「しまった」と嘆いている。(余談だが、私はその活躍年代の長さから赤兎は1
頭ではないと思う。馬の平均寿命は50年はあるが、本気で走れるといえば。競馬を見て欲し
い(笑)多分、赤兎というのは一種ブランドのようなものではなかったか。ゆえに赤兎は1頭で
はないと思う)しかし、関羽の気持ちは全く揺るがず、官渡で袁紹軍にいた劉備の消息を聞い
て二人の嫂(甘夫人と糜夫人←糜夫人はおそらく正しくない)を連れて劉備の下へ戻ることを
決意する。張遼からそれを聞いた曹操。「儂にはよい策がある」彼の策とはいったい―

まず曹操は、辞去のあいさつを関羽にさせないため、自分の部屋に人払いの札をかけた。し
かし、関羽はこれ以上ぐずぐずしてられない、と書付を残し、下された金銀の類を全て封じて二
人の嫂を御車に乗せ、自らは赤兎馬に跨り青竜刀を手に提げて、北の劉備を目指しあてがわ
れた邸宅を出た。それを知った曹操と諸将はただあきれるばかり。そこで一人の大将が言っ
た。「私が鉄騎兵3千をもって関羽を生け捕ってまいりましょう」それは将軍の蔡陽であった。蔡
陽は関羽の事によい感情を抱いてはいなかった。しかし曹操は「信義にもとる」とそれを退けて
自ら関羽のもとへ出向き、路用と錦のひたたれを差し出させた。だが関羽は「罠かもしれない」
と思い、馬上から青竜刀でそのひたたれを引っ掛け、そのまま立ち去った。許楮は「無礼だ」と
怒ったが、曹操は「むこうは1人、こちらは大勢。疑うのも無理はなかろう」と言い、帰る道すが
らも諸将相手に関羽を賞賛してやまなかった。策って、それだけ?(爆)ちなみに、このすぐ後
関羽の下に超人(笑)廖化が旗下に加わっている。夕方になり、とある田舎屋敷に一夜の宿を
求めた関羽一行。その主の老人は関羽を非常に厚くもてなした。老人は胡華といい、霊帝の
世には儀郎にもなったという。ちなみに息子は郡太守・王植に仕え、名を班という。(後の伏線)
胡老人の元を辞去した関羽は、老人から胡班への手紙を持って一路洛陽を通るルートを目指
した(ポイント1)。

東嶺関に差し掛かった時、関羽は関の大将・孔秀に呼び止められる。「どこへ行く」と問われた
ので丞相に暇をもらい河北へ兄を訪ねに行く、と答える関羽。「では丞相よりの手形を見せよ」
もちろんそんなもの持っていない。「ならば使いを出して丞相にお伺いする」そんなことされては
困る。時間がない、という関羽。「掟なので私にどうこうできることではない」貴様は私をどうして
も通さないというのか。凄む関羽。「どうしても通るというなら女をおいていけ」ついに関羽はキ
レた。孔秀に切りかかる、が、孔秀は逃げ、馬を駆って応戦する。しかし、所詮敵うはずもなく、
一刀両断。そこで関羽は逃げようとする孔秀の部下たちに向かって一言。「逃げずともよい。
儂が孔秀を討ち果たしたのは他に仕方がなかったからだ。お前らにはかかわりない。お前ら
から曹丞相に申せ。孔秀が儂を殺そうとしたので、儂が手にかけてやった、とな」(なんちゅー
やっちゃ)そして、一路洛陽へ向かった(ポイント2)。

洛陽太守の韓福も同じような手を使うものの関羽に斬られ、一転東を向き(ポイント3)沂水関
まで進んだ。ここの大将・卞喜はもと黄巾賊で鎖鎌のなかなかの使い手。卞喜は二人の二の
舞を踏むわけにはいかない、と一計をこうじた。卞喜は厚く関羽を送り出し、関をすぎたあと鎮
国寺というところで下馬した。ここで関羽は同郷の僧・普浄と出会う。怪しむ関羽だったが、卞
喜のたくらみに気づいていた普浄はそれとなく関羽に危険を知らせ、おかげで難を逃れた(卞
喜は真っ二つ)関羽一向は一路榮(本当は下が水でケイと読む)陽に向かった。(ポイント4)

榮陽太守・王植は韓福の相婿であったので、韓福が関羽に討ち取られたと聞くと関所を堅く守
らせた。王植は関羽を慇懃にもてなし、宴会に誘ったが関羽はこれを断り、王植は酒と肴を宿
舎に届けさせた。関羽もさすがに疲れがきていたので、二人の嫂に夕食を勧め、しばし休息を
とっていた。王植はひそかに部下の胡班に宿舎に火をかけることを命じた。胡班が忍び込む
と、関羽は座敷で書見をしていた。この姿に「まるで天神」と感嘆の声を漏らす胡班。誰か、と
問われさっさと素性を明かす(だめだろ)すると、関羽は胡老人から預かっていた手紙を思い
出す。それを読んで胡班は溜息をつき、「あやうく私は忠義の士を殺すところだった」と言い、
王植のたくらみを明かす。すっかりだまされていた関羽は慌てて外へ出、胡班はそれを見計ら
って宿舎に火をかけた。あとから気づいた王植が追ってくるが、関羽は「畜生め、お前にはな
んの仇もないというのに人を焼き殺そうとするとは何事だ」と言い王植もあわれ真っ二つ(だか
ら、あんたに相婿を殺されたんだよ〜)そして滑州まで来たとき、太守の劉延がやって来た。劉
によれば、黄河の渡し場は今夏候惇の部下の秦棋が固めているらしい。関羽は劉に船を貸し
てくれるように頼むが、劉は夏候惇が怖い。関羽は劉は役に立たないと思い、御車を率いて渡
し場へ向かった。秦棋は関羽に食って掛かるが、馳せ合った一瞬で秦棋の首は地に落ちてい
た。そして残った部下たちに船を用意させ、黄河を渡った(ポイント5)そこはもう袁紹の領分。
関羽は5箇所の関を破り、6人の大将を討ち取った。これがかの有名な『関羽千里行』である。

はい、演義26回の一部と27回のまるまるでした(笑)関羽が曹操の下を去ったことは事実。た
だし曹操は男らしく素直に送り出しています。細かいことはさておき注目すべきは関羽がとった
ルート。出発点は許。蜀書・先主伝によれば、当時劉備は袁紹の命令で汝南にいます。という
ことは関羽は許から北上して黄河を渡り、そのまま汝南にむかえばいい。たいした距離ではあ
りません。しかし、『千里行』のルートはどうでしょうか。まず許の邸宅を出た関羽一行は、なぜ
か西北に進路をとり洛陽を目指します(ポイント1)そしてそのまま洛陽に到着(ポイント2)すで
に問題です。洛陽が北よりにあるくらい地図を見なくても私でも分かります。そして、あろうこと
か東の方向にとって返し、わざわざ沂水関・榮陽を通って(ポイント3・4)黄河を渡る(ポイント
5)という非常にご苦労なことをしているのです。例えて言うなら、せいぜい直角をつくるだけで
済むところをわざわざ大きな三角形を作った後、さらに南下した、という無茶苦茶なルートで
す。これは、羅貫中が北方の地理に不慣れだったから、と言われています。さらに追い討ちを
かけると、先程関羽に斬られた6人全員が正史伝に出てこないのです。しかし、関羽の義に厚
いところを強調するエピソードとして、『千里行』は大変人気です。派手だしね。

しっかし私、孔秀は正しいことを言っていると思いますが。彼も公勤めだし。そこを「なんとかし
ろ」と言われても困ります。だからつい言ってしまったんじゃないかな(>では女をおいていけ)
関さんの前では冗談も命がけです。怖いです。






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