盛唐山水詩人〜王維


王維略伝

字は摩詰、太原(現在の山西省太原)の人。生卒年は『旧唐書』によれば六九九 - 七五九、
『新唐書』では七〇一 - 七六一。
但し、粛宗の宰相となった弟の縉は新・旧唐書共に建中2(781)卒、年82とされている。逆算
すると縉の生年は800年となり、適切でない。おそらく、王維の生年は690年代の後半であろ
う。すると、李白の少し年長となる。

汾州(山西省汾陽)司馬の王處廉の長男として生まれる。母の崔氏は敬虔な仏教徒で、王維
はその影響を強く受けながら成長した。名・字は共に維摩経の主人公・維摩詰から名づけられ
ている。幼少から文名を挙げ、一五歳ころから都に遊学、皇族や貴族の知遇を得てさらに名
声を高めた。七二一年ころ進士に及第、大楽丞になるも微罪を得ていったん済州司倉参軍に
左遷される。微罪については、唐代の『集異記』によれば、楽人のために「黄師子」を舞ったか
らという。これは天子のみ舞うことを許されるものである。程なく中央に復帰、七三四年には右
拾遺に抜擢され、以後監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任する。母崔氏の死を受けて服喪
後、さらに吏部郎中を経て天宝末には給事中の要職に至った。しかし折り悪くこのとき安史の
乱が勃発、王維は賊軍に囚われ強要されてこれに仕えたため、乱の平定後その罪を厳しく問
われた。しかし弟の王縉らの取り成しにより、太子中允に降格されただけで許された。その
後、太子中庶子・中書舎人・再び給事中に累進、尚書右丞として生涯を終えた。最晩年の官職
が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。

私人としての王維は、同時代の詩人李白(七〇一‐七六二)が詩仙、杜甫(七一二‐七七〇)が
詩聖と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大
成させた。特に五言の詩に長じ、自然詩人として知られる。長安の南東藍田に別荘(〔車罔〕川
荘)をかまえ、閑寂な自然に身を置く生活を楽しんだ。画もまた鄭虔や呉道子と並び称され、南
画の祖と仰がれている。蘇軾は、「詩中に画あり、画中に詩あり」と評した。(題跋「摩詰の藍田
烟雨に書す」摩詰の詩を味わえば詩中に画有り、摩詰の画を見れば画中に詩有り)現在、画
は「江山雪霽図巻」と「伏生授経図巻」とがある。詩文集『王右丞集』二十八巻がある。

作品紹介
(各詩の・は押韻である)

「鹿柴」     
 空山不見人      空山 人を見ず
 但聞人語響・     但だ 人語の響きを聞く
 返景入深林      返景 深林に入り
 復照青苔上・     復た照らす 青苔の上

(語注)○鹿柴 鹿を囲う柵。〔車罔〕川二十景の一 ○空山 人気のない山 ○人語響 人の
語声が、明晰でなくこだまして聞こえる様 ○返景 夕日の照り返し。梁の劉孝綽の詩に「返
景、池林に入る」とあるのにもとづくのであろう。また「初学記」に、「日、西に落ち、光、東に返
り照る。之れを反(返)景と謂う」とある。景を『唐詩三百首注疏』『唐詩三百首補注』『唐詩三百
首新注』等では「影」に作る。
(訳)山はひっそりしていて人影はなく、人声だけがこだまして聞こえてくる。夕日の光が深い林
のなかに射しこんできて、さらにまた青い苔の上を照らしている。

☆小川環樹氏は、王維が返景・夕陽・斜日・落暉(落ちてゆく光)などの夕日に関わる語をしば
しば用いることから、彼の仏教、中でも日想観への強い関心を想起している

「竹里館」
獨坐幽篁裏   ひとり坐す 幽篁の裏
彈琴復長嘯・  琴を弾じて また長嘯す
深林人不知   深林 人知らず
明月來相照・  明月 来たって相照らす 

(語注)○竹里館 竹に囲まれた建物。これも〔糸罔〕川二十景の一 ○幽篁 俗から離れた奥
深い竹やぶ。「楚辞」の「九歌・山鬼」に、「余、幽篁に処りて終に天を見ず」とあり、後漢の王逸
注に、「幽篁は竹林なり」とある。また唐の五臣注には、「幽は深なり、篁は竹叢なり」とある 
○長嘯 口をすぼめ声を長く引いて歌う

(訳)ただひとりひっそりとした竹林の中に座って、琴を爪弾き、また声を長く引っぱって歌う。
人は知らないだろうが、この深い林の中では、月の光が訪れて私を照らしてくれるのだ。

「過香積寺」  

不知香積寺 数里入雲峯・  知らず 香積寺 数里雲峯に入る
古木無人径 深山何処鐘・  古木 人径なし 深山 何処の鐘ぞ
泉声咽危石 日色冷青松・  泉声 危石に咽び 日色 青松にひややかなり
薄暮空潭曲 安禅制毒龍・  薄暮 空潭曲、安禅 毒龍を制す

(語注)○香積寺 長安の南、終南山脈中にある寺の名。なおこの詩は、『文苑英華』では王昌
齢の作となっている ○危石 高くきりたつ上部の突き出た山 ○安禅 座禅して雑念を去るこ
と ○毒竜 心中に生ずる妄念に例えた。明の顧可久本の注に、「群竜が男女に化け、沙弥
がその女に見とれたりすると怒って、ひきさらって行こうとする。そのとき師の教誡を念ずると、
間もなくひきさがり、毒を井戸の中に吐いた云々」とある

(訳)話に聞く香積寺はいずこにあるとも知らず、雲のかかる峰峰に何町も立ち入ったが、人の
通うこみちは途絶え、年を経た古木が鬱蒼と立ち並ぶ。山の奥深く、どこかで鐘がなる。それ
を目当てに更に進めば、泉は切り立った岩に澄んだ響きをたて、日光はさえざえと松の緑に冷
ややかである。気がつくと、薄暗がりの人気のないふちの片隅に、ひっそりと、心頭を滅却した
座禅の僧がいた。

「送元二使安西」   元二の安西に使いするを送る

渭城朝雨潤軽塵・  渭城の朝雨 軽塵をうるおす
客舎青青柳色新・  客舎 青青 柳色新たなり
勸君更盡一杯酒   君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西出陽関無故人・  西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん

(語注)○元二 元は姓で、二は兄弟の順番で、これを排行という。同時代の詩人・元結のこと
とも言うが、定かでない ○安西 今の新疆省庫車。元二は勅命によりこの地にある安西都護
府に使いするところ ○謂城 咸陽のこと。長安の西北、謂水のほとりの町。西へ旅する人を
ここまで見送り、駅舎で一夜の別宴を張る。これはその翌朝の風景 ○軽塵 軽い土ほこり 
○客舎 旅館 ○柳色新 中国では別離の際に、送者が柳の枝を折ってはなむけにする習慣
がある。したがって別離と柳とは気っても切れぬ関係にあるので、柳に見入る気持ちも特別な
ものがある ○陽関 甘粛省の西端・敦煌の西南方にあった関所。宋の楽師撰『太平寰宇記』
によれば、玉門関の南にあるので「陽(みなみ)の関」といったという。玉門関とともに西域へ通
じる要地

(訳)一夜明けた謂城の朝、きのうまで軽く飛び舞っていた土埃が朝方の雨にぬれて、駅舎の
柳も青々と生色をとりもどした。さあ、もう一杯乾したまえ。西方のかなた陽関を出てしまえば、
もう友人もいないのだから。

☆陽関三畳について

この詩は「謂城曲」として、「楽府詩集」に載せられている。「陽関曲」ともいう。一般に送別の詩
として歌われ、第四句、陽関の句を反復して歌ったので、広く世に陽関三畳として知られる。た
だ、どの部分を三畳するかについては異説もある。



参考資料

中国名詩選(中) 松枝茂夫編 岩波書店 1997.2

漢詩選6 唐詩選(上)斉藤〔日向〕 集英社 1996.9 

中国名詩鑑賞2 王維 原田憲雄 小沢書店 1996.10

中国詩人選集6 王維 都留春雄 岩波書店 1958.6


                           



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