鞭声粛粛夜河を渡る――これほど人口に膾炙したものはそうないであろう、頼山陽の「題不識
庵撃機山図(不識庵の機山を撃つの図に題す)」の第一句目である。この詩自体は不識庵(上
杉謙信)が機山(武田信玄)を撃つ、つまり世に名高い川中島の戦い、特に上杉謙信が夜半に
奇襲をかけて両者が直接一騎打ちをしたと伝わる、第4次川中島の戦いの合戦図にヒントを
得て、それを非常に壮大なスケールで描いたものである。この第一句目は、夜半、息を潜めて
河(千曲川)を渡る上杉方の静かなる緊張感を感じさせる名句であると同時に、非常にリズミカ
ルなものですらある。それだからこそ、今に至るまで人々に語り継がれてきたのであろう。


わが国における漢詩愛読の歴史は、『文選』の渡来(推古朝〔592〜628〕)までは、少なくとも
遡ることが出来るだろう。それ以来、『文選』、『白氏文集』、『三体詩』、『唐詩選』などの中国本
国の一級の漢詩集が貴族などの間で愛好された。またそれだけではなく、当時の日本人はそ
の漢字を用いて、自らの手でかの国の詩歌、「漢詩」を創作するようになったのである。ここで
は特に平安朝期半ばまでのわが国における漢詩制作の歴史を追っていきたい。

わが国における現存最古の漢詩集は、聖武朝の天宝勝宝三年〔751〕序、『懐風藻』である。
(懐風藻の説明) 
それらの精髄は、平安朝に受け継がれ、さらに嵯峨天皇朝の、いわゆる「勅撰三集時代」に続
いていく。
平安京を都に定めた桓武天皇、平城天皇に続き帝位についた嵯峨天皇は、祖父桓武の唐風
化政策を継承しながら、「文章者経国之大業、不朽之盛事〔文章は経国の大業にして、不朽の
盛事なり〕」と魏文帝「典論論文」の一節を『凌雲集』序に引き、この理念のもとでいわゆる勅撰
三集(『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』)は編纂され、世に言う文運隆盛の画期があらわ
れた。
 さらに九世紀前半には、わが国の漢詩鑑賞、創作両面に大きな影響を与える作品、白楽天
の詩集、『白氏文集』が、本国中国より伝来する。時代は少し先走るが、十世紀末、清少納言
が著した日本三大随筆の最古、『枕草子』における清少納言と中宮定子のやりとり、「香炉峰
の雪はいかならむ」(場面説明)は、特に有名である。
 さて、承和期(いつ?)にかけてもっとも著名な詩人は、小野小町の祖父といわれ、冥界伝説
をもつ小野篁である。篁は歌人としても名高いが、漢詩にも造詣が深い。承和の遣唐副使に
任ぜられながら乗船を拒否、「西道謡」で遣唐批判をいって逆鱗に触れ、隠岐配流の折には
「謫行吟」を賦し、憂憤の情をもって現実の不条理に徹底して抗議する気概を示し、「野狂」と
称せられた傑出する個性を伝えるが、残存詩歌の少なさが惜しまれる点である。更に後の貞
観期(いつ?)には、大学における紀伝道の優位が確立して、唐朝と同様、学者すなわち詩
人、という図式が一般的となる。大江音人(江家学問の祖)、菅原是善(道真の父。『東宮切
韻』『銀?翰律』『集韻律詩』『会分類聚』『管相公文集』等共佚)、橘広相(『橘氏文集』佚)らが代
表的詩人である。これらの忠臣にしても、まとまった詩作を今日に残してはいない。それに対
し、奇跡的にほぼ編纂当時のままの集を伝える稀有な詩人がいる。それが、平安朝最大の漢
詩人、管公こと菅原道真である。その詩集『菅家文草』『菅家後集』には、年代順に生涯にわた
る525首が収められ、彼がどのような時代の只中で生き、いかにして詩人としての己を築き上
げてきたかが感受される。その作風は、賦詩素材としての四季の風物を中国詩に学びながら
意欲的に掘り起こす一方、宇多天皇に重用され学儒として栄達する中、時勢にも敏感に反応
しつつ、学問の家の伝統を背負う孤独な詩人としての個我を形象化して光彩を放つ。ここで、
『菅家後集』所収、「不出門」を紹介する。

「不出門」        門を出ず
 一従謫落就柴荊     一たび謫落せられて柴荊に就きしより、
 万死兢兢跼蹐情     万死兢兢たり跼蹐の情。
 都府楼纔看瓦色     都府楼は纔かに瓦の色を看、    
 観音寺只聴鐘声     観音寺は只鐘の声を聞くのみ。
 中懐好遂孤雲去     中懐は好し遂わん孤雲の去るを、
 外物相逢満月迎     外物は相逢う満月の迎うるに。
 此地雖身無検繋     此の地身に検繋無しと雖も、
 何為寸歩出門行     何為れぞ寸歩も門を出でて行かん。
  
解釈 
 ひとたび大宰府に左遷されてより配所の門に入ってからは、罪万死にあたるを思い、戦々
兢々としてひたすら謹慎している。されば、都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけで一度も
登ったことがなく、近くにある観音寺もただ鐘の声を聞くだけで、行ったことはない。胸の思い
は孤雲の行方を追って都へと向かうが、今、外からやってきて私を迎えるのは都の使者ではな
く、外から見える満月ばかり。この地では、左遷とは言ってもなんら束縛されることはないが、
たとえ寸歩であってもこの門を出てゆくなどということをしましょうか。

文人官僚として栄達を極めた道真の大宰府左遷(901年)による挫折、以後の摂関家の台頭
は、特に紀伝道に立身出世を期していた者たちに影響をあたえ、心理的に暗い影を落とすこと
となった。やがて詩人達は政治の表舞台から遠ざけられ、詩文述作や学儒としての狭隘な世
界に追われ、不遇をかこつ一方で、言辞の彫琢に一層執着するようになる。この点、晩唐時代
の詩人たちに似ている。当時の漢詩詠作は社交上不可欠な知的嗜みでもあり、客としてその
場を賞賛し主人を讃える一方、己の身の不遇を訴えて推挙を願う作もある。詩人たちの中に
は貴顕の家司となったり、子弟を教育したり、彼らのために辞状・願文等を執筆する者もい
た。官界での立身には一部権力者の恩顧に頼るほかなく、文人たちの自信と気概に満ちた言
動もほとんど聞かれない。
 
また一条朝(980〜1027)には特に逸することの出来ない作品が登場する。それが、唐土や
本朝の詩文佳句と和歌を分類別に800余篇所収する、藤原公任(説明)選、『和漢朗詠集』で
ある。一定のふしをつけて詩歌を愛唱吟詠する朗詠がこのころ盛んとなり、それに伴い現在愛
唱されるものと、過去の詩文とを再編集したものであろう。漢詩文句における特色としては、全
編を掲載するよりも、主に対句技巧に優れた断句を圧倒的に載せている。後の『江談抄』以下
の諸説話集では、当時の詩人達が、詩文全体ではなく、その中のごく一部の対句表現に腐心
し、その巧拙に関心を注いでいることが知られ、そのような時代傾向とも本書の編纂方法は合
致する。本書の成立は、以後の漢詩文や和歌、更に中世の軍記・紀行文・謡曲等の詞章に大
きな影響を与えてゆく。

最後に、日本人にとって日本の漢詩とはなんであろうか。明治期までは確実に生きていた漢文
訓読の素養が失われて久しい。ただの亜流、猿真似と捨てるのは簡単である。ただ、日本の
漢文、とりわけ漢詩は世界に類を見ない優れた特質をもつものなのである。今こそこれを正当
に評価し、その伝統を継承していくべきではないだろうか。


参考文献
 『漢詩 ‐美の在りか‐ 』  松浦友久著   岩波書店  2003年10月
 
 『日本人の漢詩 ‐風雅の過去へ‐ 』  石川忠久著  大修館書店  2003年2月
 
 『平安朝漢文学の開花 ‐詩人空海と道真‐ 』  川口久雄著  吉川弘文館 1991年1月
 
 『日本漢詩』  猪口篤志著 菊池隆雄編  明治書院    1996年7月
 
 『日本漢詩 古代編』  本間洋一著  和泉書院      1996年10月 


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