念のため最初に言っておきますが、こんなひよっこの言うことをまるまる信じちゃいけませんか
らね。まぁしばらく気楽に、かつ気長に(おぃ)お付き合いください♪

 このように科学が進歩した現在にあっても少なからぬ人は歴史に興味をもち、そのなかの奇
特な人が、学究なんていって社会に帰ってこないこともあるわけですが(笑)そこまではいかず
とも、そもそもなぜ歴史学を志す人が、いつの時代にも存在するのでしょうか。そして、いつま
でも論争の種が尽きることがないのでしょうか。
 それは、歴史学を志す動機がそもそも人によって違い、またどの視点から歴史を見るかで、
ひとつの事柄、事件について、あるいは全く違った形が見えてくるからでしょう。つまり、その時
代の歴史学上の議論は、ある意味その時代の社会的思想を強烈に反映していると言えます。
その論拠として、簡単にこれまでの日本における中国史論争をさらってみましょう。

京都学派の祖、内藤湖南は当初、中国民主化賛成の立場から、1911年の辛亥革命を評価
し、それ以前の帝政中国に批判的な理論を展開しました。しかしその後革命政府から変わっ
た中華民国政府がなかなか実績をあげられず、内藤は、「支那は日本の指導により、発展す
ることができる」と、軍国主義へと傾く当時の日本の様相を映したような学説を発表しました。こ
れは当然後に大批判をあびることとなりますが・・・・。
そして戦後には戦前の反動として、学界の論調は東京系を中心にマルクス主義的唯物史観論
に一気に傾きます。唯物史観、いわゆる「世界史の基本法則」(歴史学研究会1949年大会報
告の呼称より)とは簡単に言ってしまうと、

1,すべてその時代の社会・政治・思想等は物質的・経済的生活の生産様式により説明され
る。つまり、社会の下部構造が上部構造を弁証法的に規定する。
2,すべての個別歴史=社会はすべて同一の発展法則を経て運動、発展する。つまり、以下の
ような発展段階をとる。

原始共産制あるいは氏族制社会→古代奴隷制社会→中世封建制社会→近代資本制社会→
社会主義・共産主義社会

ところで、「世界史の基本法則」が1949年の歴史学研究会において大々的に叫ばれたのに
は理由があります。1949年10月、中国大陸では国共内戦の果てに国民党が台湾に逃亡、
毛沢東を戴く共産党による一党独裁の共産主義体制を布くこととなったのですが、これは当時
の歴史家を含むマルクス主義者たちにとっては大きすぎる衝撃であったのです。それは、2の
発展段階論をよく見てくださればすぐ気づくと思いますが、つまり発展段階論によれば、その社
会において近代資本制が成った後、発展の最後に社会主義・共産主義社会が「達成」され理
想の世界になるわけです。そう、日本は「まだ」近代資本制社会「でしかない」にもかかわらず、
隣国、中華人民共和国は、「すでに」共産主義を「達成」してしまったのですから・・・・・。しかし
彼らが声高に主張した「世界の基本法則」は、当の中国史によって打ち砕かれることになりま
す。
それはどういうことなのかといいますと、歴史学の大きな論争の種として、「時代区分論争」が
あります。くわしく述べると全くわけのわからないことになるので(汗)簡単にいいますが、特に
一番の問題は、「古代はいつまでで、中世はいつから始まるか」です。東京系では最初、古代
を〜戦国末、中世を秦漢から明末、近世を清〜、と規定します。これは1940年に守屋美都雄
が発表した区分で、この論拠は、秦始皇による皇帝制度の成立をエポックメイキングとし、清
は皇帝制が続いたものの外的要因による変質が見られることからこれを近世にしたもので
す。片や京都の内藤湖南が唱え、いわゆる内藤史学の中核をなす区分は、古代を後漢まで、
中世を後漢〜五代、近世を宋〜、と規定します。この論拠は、皇帝制度が成立したとはいえ、
秦・両漢まではその前の春秋戦国からの連続性が高いと見、三国から五代までを貴族性社会
と定義したものです。(ちなみに湖南亡き後の京都学派の巨人、宮崎一定はこれに加え清朝
滅亡以後を最近世とします。個人的には、このくらいが一番妥当かと思われ。)
さて、さらに第3の説があります。これは古代を〜唐末、中世を宋〜明末、近世を明代〜、とす
る説。この初出は1948年に前田直典が発表し、歴史学研究会がこれを取り上げて会の方針
としたものでした。そしてこの論拠こそ、東京系の若い学者たちが熱狂したの発展段階論なの
です。この説によれば、中国において唐末までは奴隷制が行われ、次の宋では金持ちによる
大土地所有により農奴制が成立、これを中世とおいたものでした。(ちなみに同様の論拠で中
国の区分は当局の指導により、中世の封建社会の成立を戦国時代とします。・・・ありえません
ね・汗)しかし、この論には決定的な欠陥があります。それというのは、中国には本当に大昔を
除けば、基本的に奴隷が存在しないということです。宋代に農村に富裕層による大土地所有
が進んだことは確かですが、ここで忘れてはいけないのが、いくら金持ち土地持ちであろうと、
強大な中央集権国家体制の長たる皇帝の前にあっては一臣民でしかない、ということです。つ
まり実質的に金持ちが民を私用していたとはいえ、その民はその金持ちの奴隷ではなく、国家
に登記された「一公民」である、という事実です。このような反撃が起こり、一転窮地に起った
唯物史観論者たちは、たとえば「奴隷ではないが奴隷的」などという苦しい弁明を吐き出したり
もしましたが、いかんせん劣勢は挽回しがたく、しかし結局のところこの時代区分論は決着を
見ず、現在では「ことさら言うことでもない」という共通認識で無期限停戦状態、というところでし
ょうか。なので今ではことわりなしにそういう語を本で使ったりしますので、三国を中世だと書い
てあったら、「ああこの人は京都学派の流れをくむ人なんだ」、と、その程度の認識でかまわな
いでしょう(しかし今では内藤史学も万全ではないと言われていますが)

結論としてなにがいいたかったのかと申しますと、「史学とは社会的学問である」ということで
す。人が変わり、その社会思想が変わるにつれ、ひとつの事柄を考察する目線が変わり、また
新たな「真理」が生まれる。今では物笑いの種にすらなる「世界史の基本法則」にしても、結果
的に誤りであったとはいえ、恥ずべきものではありません。そういう時代だったのですから。だ
からこそ史学を志す者であれば、常に自分なりの客観的視点をもたなくてはなりません。あくな
き姿勢で、ひとつかみの「事実」を探求しつづける人、それこそが「史学者」であるでしょう。



方法論って哲学用語なんですって。

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