さて、前回に引き続いて導入部分のおはなしです(^^;)
今回はそもそも歴史学研究をどのようにすすめていくか、です。「研究なんつったって理系みた
いに実験するわけじゃないし、ただ本読んで適当になんか書けばいいだけでしょー」なんていう
アナタ。・・・・実は正解です( ̄□ ̄!!)とはいえ、もちろんそれは極論ですよ。ふん、人文だって
ツライんだもん(いじいじ)
 
 えーそれでは参りましょうか。自分の興味関心のあることが漠然とでも見つかったときまず第
一にすべきこと、それはその事柄に関連する先行研究を片っ端から調べることです。今の自
分に考え付くことなんて高が知れています(新発見が必要なのは博士論文です。ご安心を)つ
まり、これは自分の知識を深めるのに非常に効果的なんですね。そして数を読んでいけば容
易に理解されることなのですが、同じ事柄なのに、あるいは同じ資料なのに、全く違う結論を述
べている場合が多々、ということです。このあたり、なるほど歴史は一人一人のものである、と
いう感じですね。あ、私いいこといいましたか今wwもちろん、読んでいる間は「すべてを疑え」で
はありませんが、ある程度自分の意見をもって読んでいくのが大事です。もちろん、どんなエラ
イ先生でもですよ(実はこれ結構難しいんですね・・・ニッポンジン名前に弱いから)
 
 そして、ある程度先行研究の論文集なりを読み込んで次の段階、ついに対象の絞込みで
す。たとえばここで恥ずかしながら私の例を挙げてみます。まず私は三国呉の政治・経済の体
制について興味があったので、そのあたりの論文を片っ端からコピーしまくりました。資料を読
み込んでいくうち、大きなテーマの中から特に地理と造船技術を活かした呉の交易について興
味をもったんです。軍においても、将軍に与えられた歩騎軍団が歩兵2000に対し騎兵50、と
いう例がいくつかあり、これが一種の規定数と思われるのですが、歩兵に対して騎兵の数が異
常に少ないことがわかっていただけますよね。しかも場合によっては歩兵2000しか貰えなくて
騎兵なし、という例もあるくらいなんですよ。つまりは呉が南方にあって如何に馬が手に入らな
かったか、ということです。良質の馬の生産地ははるか北方。もちろんその間には魏がありま
すから、とてもいけたもんじゃありません。時代は下って金に中原を追われた南宋が、やがて
金にかわった蒙古と戦争するとき南宋軍は1頭の馬-耕作用寸胴馬-を3人で使っていた反
面、敵の蒙古軍はなんと1人につき3頭の馬-最強蒙古馬-を従えてとっかえひっかえ乗ってい
たそうです。これは勝ち目ないですわな(^^;)話を戻して、江東は土地こそあれ、兵少なし。(も
ちろん『史記』の時代から増えてはいますが、相変わらず中原に比べたらとてもとても)これは
わけのわからない字面だけ輝ける理想を掲げて異様に強いやつに不毛な戦いを挑むより、あ
くまで戦うのは他国の侵略から支配が及ぶ範囲の領地線を防衛する程度につとめ、国策とし
ては「経世済民」富国につとめる。具体的には内には農業を推奨して、外には地理的条件を活
かした交易で稼ぐ、という国家形態は、特に中国南方にあって個人的には絶妙の国家経営だ
と思うんですがね。南宋だって、「まぁいいや、江浙熟すれば天下足る、だ。仕方ないから北は
てめぇらにくれてやるよ!」くらいの寛容さがあれば、150年やそこらであんなボロボロになる
ことはなかったと私は思いますが、まぁそこが民族問題の難しさで、特に漢族は昔からひたす
ら数は多いのに団結しないもんで四六時中異民族に支配されて、だから中原を異民族が支配
するなんて許されるもんか。漢帝国の威光再び!!という崇高な理想は分かるんですが
ね・・・それで滅んでちゃ元も子もないっつーの(ぎゃおす)
 
 相当話が脱線してしまいましたが、次に行きましょう。さて、最初に集めた資料というのはい
わば「なんでもあり」で、そんな感じの名前がついていたら全部!みたいな状態だったわけです
が、つぎはいよいよ有効な資料の選別にかかりましょう。と、しかしここで自分の意見に相反す
るからといってその系統のものをすべて排除したりしないこと。当たり前ですが。あくまでも「使
える」か「眉唾」か、ということです。その際、資料の中身にも注意する必要があります。とくに二
十四史だからって金科玉条にしていたら、痛い目にあいますよ。あれはいわゆる編纂された
代の国定歴史教科書ですから。今現在使われている中国の歴史教科書を見てごらんなさ
い。「正史」がいかに信頼できないか、わかりましたね(なはは)特に、中文の先生が歴史小説
と主張する(むしろそれでもいい気がする^^;)『史記』。特に秦始皇本紀・項羽本紀なんては創
作のオンパレードです。もう史書において読んで楽しいものはすべて事実綯い交ぜか、オー
ル創作である、これくらいの覚悟はしていても、損ではないと思いますよ(おもしろくはないが)
 さて、みなさまそろそろ私の駄文にも飽きてきたころとは容易に想像できますので、ひとつ余
興を。といっても、歌い踊るわけじゃないんですがねww先に関連して、なんともジャストな『三国
志』蜀書先主伝を実例に挙げ、劉備の出自を考えたいと思います。

 先主姓劉,諱備,字玄コ,タク郡タク縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞,元
狩六年封タク縣陸城亭侯。坐酎金失侯,因家焉〔 一 〕。先主祖雄,父弘,世仕州郡 。
雄舉孝廉,官至東郡范令。
〔 一 〕 典略曰:備本臨邑侯枝屬也。

  先主少孤,與母販履織席為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘,遙望見童童如小
車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人。〔 一 〕先主少時,與宗中諸小兒於樹下
戲 ,言:「吾必當乘此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰:「汝勿妄語,滅吾門也!」年十五,母
使行學,與同宗劉コ然、遼西公孫サン倶事故九江太守同郡盧植。コ然父元起常資給
先主,與コ然等。元起妻曰:「各自一家,何能常爾邪!」起曰:「吾宗中有此兒,非 常
人也 。」 而サン深與先主相友。サン年長,先主以兄事之。先主不甚樂讀書,喜狗
馬 、音樂、美衣服。身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。(以下略)

 まず冒頭で「漢景帝子中山靖王勝之後也」と、いきなりどかんとかましていますが、司馬光
が『資治通鑑』で否定的な意見を述べたため、この部分がかなり疑問に思われてきたことは事
実です。しかし司馬光の論拠は「族属疎遠、その世数名位を紀すあたはず」のみで、実証的に
は不十分です。また注引、魏側の書である『典略』にも「備本臨邑侯枝屬也」とあり、否定はし
ていません。しかしこの司馬光うんぬんが万が一わからなかったとしても、資料から関連する
いくつかのキーワードを探すことで、より確定的な真理を発見することができるのです。まずは
與母販履織席為業」謎です。皇族の子孫がそんなに落ちぶれる?ということは百歩譲ってま
ぁあるかもしれないですが、少なくとも劉母子は他の土地に浮浪逃亡したわけでなく、故郷にす
んでいるわけです。氏族の結びつきが強い時代、そんなに貧乏なら近所に助けてくれる親族も
いそうなもの。というわけでこれは保留。やがて少年は15歳、志学の年です。「母使行學」感動
です。食うや食わずなのに、息子を遊学に!つーか金はどうすんの。と思いきや、現れたるは
足長おじさんこと一族の劉元起。「コ然父(=劉元起)元起常資給先主」。いやはや、貴重な
のはお金持ちの親戚。息子の嫁に負けるな!それなのに遊学に出た劉備青年は「不甚樂讀
書,喜狗馬 、音樂、美衣服」これはいけません。金のかかることばっかです。とんだ道楽息
子だな!

 と、素行をここまでだけでも見ますと、あきらかに劉備君、金持ちのボンボンです。わらじを売
ったりむしろを編んだりしていた以外は。そう、これだけが明らかに浮いているのです。というこ
とはつまり、「與母販履織席為業」の一文は、後世の(といってもそう経っていない)「先主はこ
んな貧しい境遇から苦労してついに皇帝にまでなった」というアピールと考えるのが妥当なわけ
です。この劉一族が漢室に連なるかは先祖の来歴などを加味して限りなく黒に近いもの、やは
り断定はできません。(私は、真実であっても劉表やら漢の名家に対してたいした血筋ではな
く、しかしなによりも武器なのは、ある程度力をもった自分(=漢室の一員)が、その血筋によ
って正統王朝を継ぐ、という一種の大義名分を人に感じさせたこと。だと思います)しかし、地
元では相当な豪族であったと見て間違いないでしょう。

さてこれから先は論文を実際に書く段階です。個々の事象に対する説明を、個々の因果関係
にあわせて説明する。そしてその対象研究全般に渡って一般化する(なんていいつつ、書ける
のか自分・汗)






日本史はすばらしいものだ

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